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Paris Opera - Mathieu Ganio, Florian Magnenet and Muriel Zusperreguy
in John Neumeier’s Song of the Earth.Photo: Emma Kauldhar


ノイマイヤーの『大地の歌』Song of the Earth




パリ・オペラ座で初演されたノイマイヤーの新作について、フランソワ・ファーグがお伝えします。』


 グスタフ・マーラーの『大地の歌』は悲哀と高揚感に満ちた歌曲であり、人に及ぼすその力たるや、かのパリス・ヒルトンがこの曲に触発されてお気に入りのディオールの装飾品を放り出し、山岳地帯で山羊を飼う生活を始めたり、カルカッタで子どもたちの救済活動を始めたりするほど。半ば宗教的な魅力をもって聴く者を世俗的な喜びと実存主義的な憂鬱の混じった感興で満たすし、作品の底に横たわる超然とした感覚は、いともやすやすと私たちを感動させ、圧倒する。
 パリ・オペラ座におけるこの作品の初日に71歳の誕生日を迎えたジョン・ノイマイヤーは、その生涯を通じてつねにこの作品に畏怖と親しみの入り混じった気持ちを抱き続けてきた。シュツットガルト・バレエの団員として初めてマクミラン版『大地の歌』に出演したのは、およそ50年前。以来ノイマイヤーは、このドイツ人作曲家の作品を研究し多くの自作に用い、自身もまた振付家として名を馳せてきたことは、広く知く知られていよう。だが、友情と時の経過を四季の移ろいに託して詠んだ唐詩にインスパイアされ、そこを出発点に自由に発想し、たいへんな人気作となったこの曲については、これまで敢えて挑むことはなかった。
 皮肉なことに、『大地の歌』はマーラーにとって最後の傑作であり、これまでにもパリ・オペラ座と仕事をしてきたノイマイヤーにとっては、これが彼の「生涯を捧げた作曲家」の曲を用いた最後の作品になるはずである。その特別な作品のためにノイマイヤーが採用したのは、これまでの彼のドラマティックなネオ・クラシックとは全く異なるダンス・スタイルとムードだった。
 神秘主義的な和音が全編にわたって明示され、テノールのブルクハルト・フリッツとパウル・アルミン・エデルマンの歌う個々の曲の間の沈黙をそのまま活かすことで、その和音の効果がさらに高まる。ハインリヒ・トロゲルによるミニマリズムの装置もまた、荘厳さを際立たせるものだ。青草の茂る大地を思わせる、正方形で客席に対する角度の変えられる装置が置かれ、天井からは太陽や月、あるいは砂時計を想起させる球体が下がっている。禅の雰囲気を醸し出すこの舞台で、冒頭から派手な技巧を排し、ときにヨガのポーズを思わせるような踊りが続く。冒頭でまずマチュー・ガニオが、人生の意味について哲学的な思索を巡らせる羊飼いといった風情で、草の上に仰向けに横たわり寛いでいる。そこへほどなくして現れたカール・パケットは、はじめはガニオの分身として振る舞うが、やがて両者の間には友情が芽生え、全体を通してもっとも素晴らしいデュエットが踊られる。


ノイマイヤー『大地の歌』でのマチュー・ガニオとノルウェン・ダニエル Photo: Emma Kauldhar

 続いて女性たちが登場。白くたなびく衣装といい、呪術的にカーブさせた両腕といい、今は亡きヴッパタールの聖母、すなわちピナ・バウシュを思い出させる。レティシア・プジョルは、スコットランドの精霊バンシーのように蒼白だ。このように肉体の気配すら持たないダンスは、そうした美意識を持つ層にはアピールするだろうが、長い目で見ればあまり意味をなさず、音楽の壮大さの前には色褪せてしまうのではないか。加えて初演当日には、いくつか振付どおりに行われないステップや、かろうじてバランスが維持された部分があるなどして、ゆっくりとした動きに要求される威厳が、明らかに損なわれていた。
 深遠でもったいぶった場面が続いた後の第5曲、「春に酔える者」では、第一舞踊手のヴァンサン・シャイエがすばらしく、跳躍を散りばめた酔っぱらいのソロには開放感があふれた。
 ノイマイヤーの『大地の歌』は、マーラーのこの傑作への刮目に値する振付であり、私が違和感を覚えたとしたら、それは彼の芸術の本質に対する疑義に由来するものだろう。ある場面はこれでいいのか訝しむほど凡庸だが、他の場面、たとえば「告別」でのガニオとプジョルの最後のデュエットなどは、いいようもなく崇高なのだ。全編を通してもっとも目を引いたのは、だらしない無精ヒゲを生やして誰よりも魅力に溢れていたガニオの存在感だ。完璧な肢体を持つテクニシャンである彼(この作品では技術の見せ場は全くなかったが)が、これほどまでに芸術性豊かで目が離せなかったことは、今までほとんどなかった。成熟のゆえか、音楽と振付の一方、あるいは両方に触発されたか。いずれにしても彼こそがこの作品の磁力であり、この夜の究極のスターであった。(訳:長野由紀)