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ロイヤル・バレエによるアコスタ版『カルメン』での、マリアネラ・ヌニェスとカルロス・アコスタ  Photo: Emma Kauldhar by courtesy of the ROH


アコスタ振付の 新版『カルメン』Carmen




ロイヤル・バレエの誇るキューバ人スターが手がけた新版について、ジャナンドレア・ポエジオがお伝えします。

 さる定評ある英語辞書によれば、‘romp’という語には「快活で楽しい活動。通常、賑やかで面白いもの」という意味がある。だが現代のバレエ界で特定の公演について語る場合、この語には往々にして軽蔑的なニュアンスが含まれる。舞踊史を振り返れば、‘romp’な作品には後代に伝わる名作も多いのに、まるでそんなものは存在しなかったかのようだ。アコスタによる新版『カルメン』の終演後、バレエは「快活」であっても、神かけて「賑やかで面白く」てもならないと信じる狭量な守旧派がかまびすしく口にしていたのが、この語だった。確かに、この『カルメン』はそのような作品だった。アコスタは振付を行っただけでなく、中身の濃いパフォーマンスを作ったのだが、その創作のあり方は2007年に刊行された自伝にも明記されているように、エリート主義的でない大衆志向を反映している。彼の劇場センスは直接的で、些細な点にこだわらず、常に、自身の性格でもある諧謔味や生へのあふれる情熱を主張している。2004年に初演され好評を得た伝記的ダンス・ショー『トコロロ』に明らかなように、抑制されて旧弊なエリート意識から抜け出せない“ハイ・アート”に対し、それとは一線を画し、観るものもノリを共有してしまう見事な解決策を提示する才能が、彼にはあるのだ。

 今回の『カルメン』は、パンチの効かせ方、喧騒、カラフルさ、大衆的な楽しさ等、『トコロロ』から多くを継承している。そして、引用という手法が、頭の固い伝統主義者を挑発するアコスタの茶目っ気と読めるのか、当世流行している先行作品の変形に対する彼の解答であるのかはさておき、またヒットする舞台作品の多くがそうであるように、オリジナルではない部分もある。引用が多く、しかもそれらが非常に周到に演出に埋め込まれているのを観ると、彼自身のアイディアには乏しかったのではとも勘ぐってしまう。ベジャールの『ボレロ』、マクミランの『マノン』、そして何より『ドン・キホーテ』をそこここで想起させ、カルメンのもう一人の恋人のエスカミーリョ(フェデリコ・ボネッリが目もくらむほど見事に造形した)は、演劇的にも振付の面でもプティパの古典に登場する闘牛士エスパーダと瓜二つ。ミュージカルに詳



ロイヤル・バレエによるアコスタ版『カルメン』での、マリアネラ・ヌニェスとカルロス・アコスタ  Photo: Emma Kauldhar by courtesy of the ROH


しい人なら、有名作品からの引用を(意図的かどうかはともかく)さらに見つけられるだろうし、メゾ・ソプラノのフィオナ・キムのベルベットのような声に合わせて演じられたジプシーの占い師は、バレエ風のマイムも含め『ラ・シルフィード』のマッジを鮮明に思い出させる。だがそれらを含めた趣向の全てが有効だったとは言えない。ロイヤル・オペラハウスのコーラスを舞台にあげての歌唱はほとんど効果がなく、ビゼー作曲のフランス・オペラの名作をスペイン語で歌う必然性は感じられなかった。つまるところ、ローカル色の忠実な再現という意味では、この新作も元のオペラも、『マイ・フェア・レディ』中の「スペインの雨は主に平地に降る」の曲と似たり寄ったりなのだ。スペイン語に変えても、にせものくさく馬鹿げて聴こえただけだ。同様に、牛の角を生やし肉体美をひけらかす浅黒い「運命」役(マシュー・ゴールディング)は陳腐で、キューバの伝説的バレリーナであるアリシア・アロンソも踊った版のこの役にそっくりな上に、劇的効果は劣っていた。

出演者については、マリアネラ・ヌニェスはいつもながら火花の散るようなテクニックを見せたが、不格好なかつらと半開きのままの口(男たらしの役柄を表現したいなら、別のやり方があるはずだ)が災いして、その本領である踊りを通じた演技力は発揮されていなかった。呪われたドン・ホセはアコスタ自身が演じたが、ひ弱で騙されやすく、気立てのよい農村出身の青年が愛ゆえに盗賊となるこの役は、柄に合わず、手こずっているようだった。にもかかわらずこれが飽きさせない舞台となったのは、素晴らしい美術(ティム・ハトリー)、最高の照明(ピーター・マムフォード)、そしてビゼーの原曲から逸脱しながらもじつに魅力的だったマーティン・イェイツのオーケストラ編曲によるところが大きい。これがロイヤル・バレエと、なによりロイヤル・バレエの客層にふさわしい作品であるかどうかは議論を待つところだが、確かなのは、そうした制約を離れて他で大々的に上演すれば、文化的にこれほどうるさくない新規のバレエ・ファンを獲得し、アイコン的な作品になるだろうということだ。(訳:長野由紀)