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デイヴィッド・ニクソン振付『嵐が丘』での芥実季(左)とアビゲイル・プルデイムス © Emma Kauldhar

嵐が丘 Wuthering Heights



デイヴィッド・ニクソン振付の文芸バレエを、ノーザン・バレエ・シアターが再演。
マイク・ディクソンがお伝えします。





 イギリス文学史上最高の小説がエミリー・ブロンテの『嵐が丘』であるのは、専門家の間ではほぼ異論のないところだろう。土地柄のリアルな表現、読者の眼前に広がるような風景描写、そして深遠な精神性を全編の中核となる恋愛と融合させたこの物語は、ゴシック・ファンタジーの先駆けともいえる作品であり、すでに何度か映画化もなされてきた。
 ノーザン・バレエ・シアターはヴィクトリア時代の小説を劇場舞踊化してきた長い伝統を持つカンパニーであり、そのすべてが成功作ではないものの、いくつかの作品は年月の試練に耐え観客の人気を獲得している。同団の芸術監督デイヴィッド・ニクソンは物語バレエの名手であり、このたび再演された彼の『嵐が丘』は、上質な物語バレエであるために必須の“明晰さ”を備えた作品である。物語の展開は自然であり、ニクソンはいつもながら、プログラム解説が不要なほど原作に忠実だ。文学作品にはバレエ化に適したものとそうでないものがあるが、たとえばシェイクスピアの戯曲の大半がバレエ向きではないのに対して、ブロンテの生涯で唯一のこの小説はとても適しており、ニクソンはじつにすぐれた選択をしたといえる。
 バレエ『嵐が丘』はまず、何かに憑かれたような様子のヒースクリフ(トバイアス・バトリー)がおぼろな風景のそこかしこに浮かぶ事物に怒りを爆発させ、地面に何度も激しく倒れこむ場面で幕を開ける。怒りが収まるとヒースクリフは、若い頃、キャシーとヨークシャーの荒野でふたりきりで遊んでいた様子を回想する。レイチェル・ギルスピーとジェレミー・カーニアーは魅力的で活気に溢れ、純情そのもの。この理想的な若き恋人たちは、主人公二人がかつてもっと幸せだった頃の回想として繰り返し登場する。
 ニクソンの語り口は映画的で、孤児ヒースクリフが嵐が丘に引き取られてくるいきさつや、キャシーの兄であるヒンドリー・アーンショー(ジュリアーノ・コンタディーニ)との競争関係を簡潔に描いている。成長したキャシーが近隣のスラッシュクロスに住むエドガー・リントン(高橋宏尚)の洗練されたライフスタイルに魅せられる様子は、コール・ド・バレエの踊る優雅な社交ダンスを用いた短い場面を連ねて表現され、ハナ・ベイトマンは、孤独なイザベラ・リントンが性的な焦燥にかられる様子を、じつに適切な熱度で演じていた。クロード=ミシェル・シェーンベルクの濃厚でメロディアスな音楽が各場面の効果を高め、アリ・アレンのミニマリスト的な装置は見るものの想像力を掻き立てたが、とりわけ一本の矮小木で荒涼たる原野を象徴していたのがみごとだった。すばらしい衣装は、ニクソン自身のデザインによるものだ。


Northern Ballet - Tobias Batley and Martha Leebolt in Withering Heights. © Emma Kauldhar

 マーサ・リーボルトのキャシーは、衝動的な野生児から、贅沢に溺れる若い女性、そして夫の約束する安定した生活とヒースクリフへの何ものにも代えがたい愛との板ばさみに苛まれ混乱する魂へと変貌していく。情緒不安定なキャシーの諸相を浮き彫りにし、徹頭徹尾役を生き抜く姿が、興奮を誘った。バトリーは、普段の彼の知的で抑制の効いた芸術家ぶりとは正反対の役柄であるヒースクリフの、むら気で悪魔的な面を完璧に演じており、乗馬用の鞭を小道具にベイトマンを性的に支配するデュエットの残酷さも絶妙だった。
 だが全編を通して最高の場面は、リーボルトとバトリーが凍てついた荒野で激しい感情に身を任せ恍惚となる最後のパ・ド・ドゥだ。複雑なパートナリングがいくつも用いられているが、これまでの共演と同様に両者は同じ耳で音楽を聴き、人知を超えた理解力で互いの身体を知悉していた。ぞくぞくするような、息を詰めて見守るしかないリフトの数々は、まさしくその賜物だ。最後はヒースクリフがひとり膝まづき、その身体の上に雪が降りしきる中で息絶える。劇的なこのバレエを象徴する情景に、圧倒された。
(訳:長野由紀)